第13回育児セラピスト座談会 「学校えらび ~どこに入れるのが正解なの?~」前編
今回は「学校えらび ~どこに入れるのが正解なの?~」というテーマで、熊本からご参加の吉野さんと、北海道からご参加の小川さんのお二人とともに、座談会を進めていきます。お二人とも、「学校えらび」という点では、親としては一山超えたような立場でいらっしゃいます。


ところで、この「学校えらび」というのは、どのお母さんも、とても悩むところではないかと思います。
「学校えらび」に関して、あるお母さんのお悩みと、スクールカウンセラーの方からのご意見
今回の座談会に先立って、質問やお悩み、ご意見を募ったところ、まったく立場の違うお二人の方からお返事をいただきました。
ひとりは、まさに学校えらびで悩んでいるお母さんから、不登校の現状も含めたご相談をいただきました。そしてもう一人は、現職のスクールカウンセラーの男性から、東京都の公立小学校の現状を踏まえたご意見をいただきました。
アメリカで生まれ育った子供(6歳・10歳)を連れ、日本に越してきたママの悩み
子供たちは初めての日本の文化、風習、学校生活、日本人の態度、対応に戸惑い、苦しみ、上の子は不登校になってしまいました。
両親は日本人なので、日本語を話す事はできますが、漢字や学校用語、学習用語、日本で生まれ育った人なら知っている言葉の意味が分かりませんでした。
1年生で入った下の子は、学習については問題なく進めることができましたが、学校や生活上でのルールの多さ、理不尽さに日本は大変だし面倒臭い事ばかりで遊びがないし楽しくない。毎日アメリカに帰りたいと1年間言い続け、学年が上がった今も言い続けています。
一方、上の子は、小学4年生から入り、すぐに沢山の友達ができましたが、4年生と言う事もあり、漢字や言葉の意味の壁が大きく、入ったばかりで毎日先生から叱咤され、1年生の漢字を覚える我が子に対し、友達からは簡単なのばかりやってズルイと言われ、どの教科をやるにあたっても教科書が読めない、意味が分からない。そんな状況の中必死で頑張りましたが、もう頑張る事はできなくなってしまいました。
子供はもう学校にも近づかないし、学習も全拒否の状態です。英語はネイティブなので、インターナショナルスクールに行くという手がありますが、高額であるインターナショナルスクールに通わせてあげられるような金銭余裕はありません。 このままの状態では、日本語を学ぶ事もできない。英語を学ぶ事もできない。どちらもできなくなってしまいます。
学校選びは大切だとは思います。けれど、それよりも心の安定を守れる学校だけでなく、日本全体の人事配置やシステムが必要なのではないかと私は思っています。もっと気軽に相談できる、ただ話をする。そんなホームカウンセラーがいる日本になったら良いなと思います。
公立小学校スクールカウンセラーからのご意見
「どこの学校に入れるのが正解なのか?」というテーマですが、保護者が我が子をどこの小学校に入れたらよいのかの、判断基準を得たい、という事であると思っております。
結論からお伝えいたしますと、
世間体や親の期待に合わせるのではなく、子供の特性に合った教育がなされる学校に入れること。
特性がある場合、単学級で一クラス10人程度の学校にし、通常級であっても特支のように接してもらえる学校を選ぶ(東京でも山間部の公立学校は一クラス10人未満の所もあります)。
東京都の公立小学校の場合
東京都の公立小学校では、学区外の小学校も候補にできますが、どこの学校の教育も殆ど同じで、どこの小学校に入れたらよい、などということは、まずないと思います。
学校のマネジメントは校長と副校長の力量によりますし、管理職の先生は6年間で2回は変わる可能性もあります。
リーダーシップがあり、保護者や先生方からも評判のいい校長のいる学校は、私の経験則では1/30の確率です(30校に1校)。しかも、事前に「あの校長はいい」などと調べることなどできませんし、6年間のうちに先生方は殆ど入れ替わってしまうので、組織の体質は良くも悪くも変わってしまいます。
「間違った学校、間違った教育」にならないために
「正解」を求めてしまいたくなる保護者のお気持ちは、理解できる気がします。できるだけ不安要素は少なくしたいですよね。しかし、就学前に考えた正解が、数十年後の正解にもなる事など、誰にもわかりません。
正解は誰にも分りませんが、明らかに間違っている方向は明確に示すことができます。それは下記2点です。
- 保護者が世間体を考えてしまう。
- 保護者が子供の特性に理解がない。
また、保護者が子供の特性を理解するには、適切な養育や児童心理などを学んでいる必要があるので、日本アタッチメント育児協会で研鑽を積むことが必要であると思います。
現場のスクールカウンセラーも感じている「親が学ぶ必要性」
このスクールカウンセラーの方は、当協会の受講生なので、「日本アタッチメント育児協会で学べ」と言っていただいており、大変ありがたく思います。それは置いておいたとしても、現場のスクールカウンセラーの方が、「子どもを理解するために、親が適切な養育や児童心理を学ぶ必要がある」と感じているところが、非常に印象的でした。
「気持ちよく学校に行かせたい」というお母さんの思い
このお母さんの悩みと、スクールカウンセラーさんのご意見を起点として、話しを進めていきます。
吉野さんは、学校の方針と親御さんの思いが、噛み合わないところがあると言います。文科省は、在宅学習も出席扱いにする方針を打ち出していますが、親御さんの思いとしては「とにかく学校に行かせたい」、そのためにも「学校は安心安全の場であってほしい」と思っています。このあたりのズレが、学校えらびを難しくしていると感じているそうです。
小川さんは、ご自身もカナダの学校に通った経験があり、海外の学校は、授業の方針や方法など、日本とは全く違うと言います。その意味で、このお母さんの状況やお悩みは、理解できる気がします。一方で、スクールカウンセラーの方が、発達に関する知識が必要であるとおっしゃるのも、保育の現場の人間のひとりとして、切実に感じていると言います。
不登校になったら「学校に行かせようとしない」
このAMさんのお悩みに関して、本当につらいお気持ちになられていること、どこにも出口がないように感じられていることとお察しします。このような状況の時は、見方を変えてみるのが有効だったりします。
これは、学校えらびの先に生じた不登校の問題でもあります。そこには、お母さんの「学校へ行ってもらいたい」という、とてもまっとうで当たり前の願いがあり、「学校に行けるようになる」ことが、問題解決のゴールとなっていると思います。ここの見方を、少し変えてみるわけです。
以前の座談会で「不登校」をテーマにしたときにお話ししたことですが、じつは「学校に行かせようとしない」ことが、不登校の重要なカギとなります。親が「もう学校に行かなくてもいいよ!」と本心から思い始めたときに、事態は解決にむけて動き出すのです。
日系アメリカ人の子の学校えらびとは?
もう一つの問題は、このお子さんが、これまでアメリカで生まれ育って、アメリカの学校に行っていて、小4の時にはじめて日本の学校に入っているということです。
さらに、この子の場合、両親ともに日本人とのことですので、見た目は日本人そのものなのだということです。これは、逆につらい側面があります。日本人の見た目なのに、日本語が不自由だったり、漢字を知らなかったりするのは、本人にとっては、思った以上にストレスになります。逆に、見た目が外国人なら、「知らなくて当然よね!」、「小学校1年生の漢字から始めて、えらいね!」となるわけです。
小学校3年生まで、アメリカで育っていれば、見た目は日本人で、内面はアメリカ人、つまり日系アメリカ人です。つまり、日本に移民として来ている外国人の子の状況に、より近いと言えます。これが、もう一つの見方です。
そう考えると、外国人移民の子どもが多く通う学校を選べば、日本語の補修授業が充実していたりします。ましてや、この子は、両親が日本人なので、会話の日本語は、ほぼ問題ないうえに、英語はネイティブなのですから、学校ではむしろ優等生でしょう。
しかし、この子が通う小学校は、日本語の支援が得られていない現状をお聞きするに、基本的に生徒は地元の日本人が多くを占めるのだと推察されます。それが、AMさんの苦悩につながっているのだと思います。
学校に合わせて引っ越しすれば、選択肢は大きく広がる
「学校えらび」に正解はありません。しかも、その選択はトレードオフです。こっちを選択したら、もう一方は選択できません。
AMさんが、今の学校のままいくのか、別の学校に転校するのか、これは、とても難しい問題であり、正解はありません。最終的に必要なのは、覚悟だけです。そのうえで、転校という選択を考えるのであれば、外国人移民の子どもが多く在籍する学校は有力な選択肢となります。そういう学校に行けば、日本語のサポートが、あたりまえに期待できます。
さらに、お母さんの生活構造(仕事・住まい・人間関係)がどうなのかも、大いに影響します。たとえば実家暮らしなのか、自分の世帯だけで暮らしているのか。地元なのか、仕事に合わせて移り住んでいるのか。それらによっても、学校えらびの選択肢は大きく変わります。
実家なら、そこから通う前提での選択となります。移り住んだ土地なら、学校にあわせて引っ越しすることも選択肢に入ってきます。スクールカウンセラーのTAKAさんの報告では、東京都内でも山間部に行けば、10人程度の少人数クラスの学校もあるそうです。あるいは、移住を推進する島に移り住んで、小さな小学校を選ぶこともできます。「体験」という文脈で見れば、むしろ積極的に良い選択肢になり得ます。
日本のオルタナティブ教育は、すてたものじゃない!
最終的な選択は、TAKAさんが指摘してくれたように、「子どもの特性に合わせる」ことが、一番大事です。
AMさんに対して、「こうすればよいですよ!」という正解を導くことは、当然できません。それでも、文面からわかるお子さんの特徴があります。
英語ネイティブであること。文化的背景もアメリカである。日本語の話し言葉は問題ないが、漢字がむずかしい。日本特有のルールに適応するのがむずかしい。これらの特徴が、文面から読み取れます。
こうした特徴に対して、日本の教育がフィットする側面もあると思います。学校に登校しなくても、フリースクールなどのオルタナティブ教育でも出席として認めるという文科省の方針は、まさにこのような特徴の子にフィットするかもしれません。
AMさん自身は、不登校になる前に、学校が指導やカウンセリングを入れるアメリカの方が、望ましいと感じているようですが、日本の「不登校を許す形」も、見方によっては悪くはないとも考えられます。
今すぐ変えられるのは、親の考え方と行動だけ
さらに言うと、アメリカに帰る選択肢がない以上、日本の現状を受け入れるしかないのが事実です。ここで、日本の制度を憂えたり、声を上げたりしたとしても、その間に子どもは、日に日に大きくなってゆきます。「サポートがもっと増えれば」、「先生の質が向上すれば」、「学校が変われば」・・・と主張したところで、制度が変わる前に、お子さんの学校教育は終わってしまうかもしれません。
まずは、今の日本の教育を受け入れないと始まらないのが、親に課せられた現実です。そこから、親としてどう対応していくか。いま、目の前の子どもに、よりよい環境を与えるために何か変えられるとしたら、それは親の考え方と行動しかありません。
そのうえで、いま通っている学校について考えてみたとします。今回は、見方を変えて「学校に通わなくてもいいじゃん」と考えて、フリースクールなどのオルタナティブ教育を模索してみてはどうでしょうか?
不登校に関して言えば、親が「学校行かなくてもいいんじゃない」と思い始めたときから、問題が好転するのが常です。
このように、親の見方を変えてみるだけで、これまで見えなかった選択肢が立ち現れ、違った世界が見えてくるかもしれません。
教育は、マイノリティに有利な方向へ向かっている
AMさんのケースでは、もう一つの親の見方として、お子さんは、日本の小学校においては「マイノリティの存在」であるということを、積極的に自覚することがあります。そうすると、マイノリティであることの良い部分と悪い部分が見えてきます。
この子は、英語ネイティブです。しかも、日本語も会話だけなら問題ありません。つまりバイリンガルです。その裏面に、漢字ができないとかがあるわけです。
ここで、教育の話をしたいと思います。日本の教育は、いま急速に変わろうとしています。その狼煙(のろし)となったのは、何といっても「非認知能力」という言葉と概念だったと、わたしは分析しています。非認知能力は、もはや一般の親御さんも当たり前に知るものとなっています。
これから起きることは、これまでの点数や偏差値や内申点といった数値化された評価基準が意味を失い、いい大学に入ることの価値も小さくなります。代わりに、性格傾向や自制心、探求心やコミュニケーション能力といった数値化できない要素(非認知能力)が、評価基準の重要な部分を占めるようになり、社会で必要とされる能力として、これからの教育のメインストリームとなります。じつは、この流れは、すでに始まっています。いま、小・中学校をとおして、さかんに行われている「探求学習」は、まさにこの流れの“はじめの一歩”です。
このような社会において、AMさんのお子さんが、この先マイノリティの道を歩むことは、とても有望な可能性を秘めています。
たとえば、学校に行くのをやめて、フリースクールに通い、自分の好きなこと、得意なことを掘り下げて、その先でさらに、N高のようなマイノリティの高校に進む道もあります。N高というのは、ある種の特徴を持っていて普通の高校に適応できない子が多く選ぶ通信制の高校で、海外の大学を含め、とても優秀な生徒を多数輩出しています。不適応がある裏側の資質として、さまざまな有能性を持つマイノリティの子たちとも言えます。そういう道に進むことも選択の一つになります。
多くの親が安心できるのは、みんなと同じ道です。小・中・高と普通に行って、有名大学に入って、大手企業に就職する。これもとり得る一つの選択肢です。
しかし、AMさんの場合、そもそもお子さんの背景が、日本ではマイノリティなのだから、迷わずにマイノリティの道を進みやすいのではないでしょうか。その道は、これからの日本が、あるいは世界が求める人材が育つ道でもあるわけです。