第10回育児セラピスト座談会 「体験が大事というけれど・・・」

自己紹介

こんにちは、日本アタッチメント育児協会の廣島大三です。今回の育児セラピスト座談会は、「体験が大事というけれど・・・」というテーマでお送りします。いつもなら、参加者の方々数名とともに話を進めますが、今回は参加希望がなかったので、わたしの「ひとりしゃべり」で進めていきます。たまにはこんな回があっても、おもしろいのではと、個人的には思っています。

「体験」をテーマに選んだ背景

では早速、話を進めていきましょう。今回のこのテーマは、少し捉えどころがなかったかもしれません。そこで、まずはこのテーマを選ぶに至った前提の部分からお話ししようと思います。

保育や子育て支援、教育の分野で、「体験が大事」という言葉はよく聞かれます。ここで言う「体験」というのは、いろんなものが考えられます。

小学校・中学校の授業では、「体験型学習」が導入されたりもしています。同じく教育の場では「体験格差」などと言われたりもします。塾に行ける子、いけない子、習いごとに行ける子、いけない子、旅行に連れて行ってもらえる子、もらえない子など、親の収入などの要因によって、子どもが享受できる体験の質や量に格差が生まれている、というものです。小学校の先生などは、この体験の格差によって、子どもの育ちにも差が出来てしまうのではないか、と懸念されます。

「自然体験」という言葉もよくききます。海や山、川、里山などで自然をとおした様々な体験をすることで、キャンプや海水浴、アウトドア、あるいはスキーなどもこれに入るでしょう。

最近、わたしが重視しているのは「海外体験」です。海外旅行とは少し違います。日本の外の国に行って、空気や気候、におい、建物の違いを肌で感じるとともに、いろんな人種の人がいて、日本語ではない言葉を話している環境を体験することは、子どもの発達においてとても重要な意味を持ちます。特に、日本のように単一民族が多くを占めるような国では、なおさらです。これについては、のちほど詳しく話そうと思います。

このように「体験が大事」という言葉の背景には、さまざまな前提と意味がありそうです。そのなかで、「子どもの育ちや発達、学習機能の向上につながる体験とは何か?」について、今日は考えてみたいと思いこのテーマを選びました。当然ですが、ここでは「体験なら何でもいいのか?」というアンチテーゼを含んでいます。

体験とは、哲学のいとなみである

まずは、「体験とは何ぞや?」という観点から、みなさんと共通認識を作り、「体験」を定義することから始めたいと思います。

まず思い浮かぶのは、「アクティビティ」の観点です。幼児教育においては、子どもが取り組むこと全般を指しており、社会的、文化的、レクリエーション的なテーマを含んでいたり、あるいは発達的、教育的な意味合いを含んだりもします。

また、「経験」と分けて考える上で大事なのが、体験の漢字の成り立ちでもある「体をつかった経験」という観点でしょう。つまり、経験ではなく体験なのです。旅行は経験です。しかし、その中には、体験が含まれることもあるでしょう。

ドイツ語には、体験を独自に定義した言葉として“Erlebnis(エアレープニス)”という単語が存在します。もともとは現象学における哲学用語で、「より主観的、個人的」「具体的かつ1回的(再現性がない)」「知性を経ない」といった要素を含みます。

現象学の権威ウィルヘルム・ディルタイによれば、「体験とは人間の主体的な働きそのものである」。つまり、誰かにやらされるものでなく、誰かのためにやるものでもなく、自らの意志で行動して、自らが感じた結果であるということです。

ディルタイは、またこうも言います。「体験はもっとも確実な現実である」。経験が記憶であるのに対し、そこに自らの意志や感情、学びや気づきが立ち上がることで、自分の中に真に起こった現実となります。ある体験が「楽しい」と感じる子もいれば、「怖い」と感じる子もいます。その先の学びや気づきも違います。それぞれが、その子にとっての現実だということです。

さらに「体験は主観的な偏狭さをあわせもつ」とも言います。つまり、その人独自の偏りや狭い捉え方によって成り立っているものこそが体験なのです。

こうして、ドイツ哲学における“Erlebnis(エアレープニス)”の概念を加えると、どうやら「体験とは何ぞや?」が見えてきたのではないでしょうか。体験は、子ども本人の固有のものであり、大人の期待や意図を含まないものである。なにかの正解があるものではなく、誰かにわかってもらう必要もなく、子どもそれぞれが、自由に取り組み、感じとれば良いものであります。そして、その体験は一度きりのものです。同じ経験をしても、つぎには違うものとして本人のなかに残るのが体験です。また、自らの意志による行動であり、独自の感情をともない、学びや気づきがあり、偏りや捉え方の狭さを含んでいるものこそが体験です。

われわれが大事にしなければならないのは、経験ではなく、体験だということです。経験の段階では、それほどの影響力を持たないが、体験にまで昇華できると、感情が沸き起こり、発見があり、それによって子どもの発達や認知、学習機能の向上に影響するのです。そう考えると、われわれ大人が「体験」として扱ってきたものの中には、経験で終わっているものも少なくないのかもしれません。

体験とは、発達の源であり、非認知能力のカギとなる

では、つぎに体験を発達という観点から考えていきましょう。そうすると、体験には、「刺激・情動・学習」という三つの要素が含まれていることに気づきます。

体験とは、「刺激」である。まずは、身体刺激があります。体をつかったり、手指をつかったり、あるいは五感への刺激があります。これらは、体験を支える重要な要素です。さらに、脳への刺激もあります。興味関心をもつことで、好奇心が生まれます。考えたり想像したりもします。発見したり、理解したりすることも脳刺激です。

体験は「情動」をともなう。感動や興奮をもたらし、「楽しい」とか「もっと」といったポジティブな感情を大きく動かします。逆に、恐怖や不安といったネガティブな感情を動かすこともあります。ドキドキしたり、それが過ぎ去ったあとに安心感を覚えたりします。これらは、大きな感情をともなう経験、つまり体験として子どもの中に残ります。

そうして体験によって「学習」します。子どもは、達成感のなかに自信や自己肯定感を育みます。問題解決力を養い、想像力を身につけます。そして、さまざまなことに好奇心を持つようになり、モチベーションや向上心が育まれます。体を使うことで、身体能力が向上し、脳機能が向上します。体験と体験を結び付け、より高度に、複雑に機能します。これらは、子どもの世界観を広げ、「なんでもできる」「なんにでもなれる」「だれとでも仲良くなれる」「世の中は楽しいことでいっぱいだ」という主観をもてるようになります。是こそが「生きる力」であり、「将来にわたる能力」と言えます。

ここまで話してみて、発見したことがあります。こうして「体験」を「発達」の観点で観てみると、体験によって得られるものは、すべて「非認知能力」に置き換えることができるのです。言われてみれば当たり前なのですが、体験とは、非認知能力をやしなうカギでもあることを、改めて確認できました。

「みんな同じ経験」を、それぞれの主観的な“体験”に昇華させる保育実践

これに関連して、海外の保育実践についてもご紹介したいと思います。先日、東京大学の遠藤利彦先生がセンター長を務める「発達保育実践政策学センター」におけるカナダの研究者ナーダ・ネルソンさんの報告を聞きました。

研究者であり、保育実践者でもある方の報告でした。実践の舞台は、ある程度、人間が手を加えた自然環境で、川を再現するために、溝を掘って水が流れるようにしたりしていいます。日本で言う「里山」に近いような環境です。そこへ子どもたちを連れてゆき自然体験をするというものです。

ここで、ナーダさんが面白いことを言っていました。「わたしたち大人は、子どもと何かをするときに、イベントにしてしまう傾向があります。計画を立てたり、演出をしたり・・・。しかし、子どもにとって大事なのは、何気ない日常なのだと考え、今回の試みでは、イベントにしない、なにも企てない、なんのディレクションもしないで、日常の一部として、単発ではなく、継続的に、季節をまたいで、里山あそびを取り入れたそうです。大事にしたのは、定点観察、いつも同じ里山に行くけど、その時々で天気や季節が違い、山の様子も違う。そこに、何の目的も持たずに通い続ける。それを子どもたちが、それぞれに感じ、それぞれに学び、それぞれに表現する。そこには、それぞれの発達のあり方がある、というコンセプトです。

さらに、この実践が興味深いのは、子どもたちにとって、ちゃんと体験に落としこまれるような工夫がなされていたことです。それは、里山あそびから帰ったあとです。教室の壁には専用のスペースが設けられ、棚が置かれています。園児たちが、里山から持ち帰った“戦利品”をそこに飾ります。壁には、その日に撮った写真や、園児たちが現地で描いた絵が飾られます。そして、1冊のノートが置かれています。そのノートに園児たちが自由に絵を描きます。その日あったこと、感じたこと、見えたものを、自由に描きます。これは、子どもそれぞれの主観的な経験をイメージ化するということです。それによって、この経験は、まさに“体験”になるのです。次回、里山に行った後には、このスペースは、その時のものに入れ替えられます。

この保育実践は、里山に行って遊ぶ、というみんなに共通の経験を、園児それぞれの感情や考え方、捉え方による主観的な“体験”に落とす試みです。それによって子どもたちに起こる成長や発達は、単体で見ても相当に有意義なものですが、それが定期的に、季節をまたいで、長期的に行われたものです。これは、子どもの発達にとっても、非認知能力の形成にとっても、相当に影響力のある体験になっているに違いありません。保育や教育、子育て支援の現場で、ぜひ参考にしていただけるのではないかと思い、今回ご紹介しました。

わたしが、子育てや子どもの発達を考えるとき、あるいは、日本アタッチメント育児協会のコンテンツを作る時に、つねに最も重視してきたものが、今回のテーマである“体験”です。なぜなら、体験こそが、発達の源そのものであり、非認知能力を育てるカギだからです。体験の良し悪しは、われわれが思っている以上に、子どもの育ちに大きな影響力を持っていると考えています。体験は、間違いなく発達と連動しています。

体験は大きく分けると、“日常体験”と“非日常体験”に分けられます。それぞれに果たす役割が違い、影響を与える先が違います。

基本となるのは、「日常体験」です。いつもの繰り返しのなかに起こる、固有の主観的な経験です。年齢が小さいほど、発達段階が未熟なほど、この日常体験から発見したり学んだりする頻度は大きく、重要性も高まります。逆に、大きくなればなるほど、その頻度は低くなり、体験ではなく経験や出来事になっていきます。

50代のわたしよりも、20代の人の方が、日常の中に“体験”を見出すことができるでしょう。0歳児なら、日常の出来事すべてが“体験”となるでしょう。だからこそ、日常体験で大事なのは、安心感があることです。いつもの場所、いつもの人といっしょに、安心感の中で発見したり学んだりすることが重要です。ここで得られるのは「人生に必要なこと」です。トイレやお着替え、食事などの生活スキル、人とのコミュニケーションなどの対人スキルです。あるいは、音楽やアート、歴史や国民性など、文化的に生きるためのリベラルアーツも、幼少期の日常体験が土台となるでしょう。

もうひとつの体験は、「非日常体験」です。いつもの日常の中には存在しない体験です。海や山の自然体験やキャンプ、都会の子の田舎暮らしなどがそれにあたります。また、クラフトなどの〇〇づくり体験とか、田植え体験、泥んこ遊びなどのアクティビティも非日常体験です。習いごとや塾というのも、体験という文脈で言えば、学習要素を含む非日常体験と言えるでしょう。

最初に基本となるのは、生活の中で「生きる土台」をつくる日常体験です。その土台の上に、社会のなかで「よりよく生きる」ために重要なのが非日常体験です。最初に日常体験、3歳を過ぎたころから、そこに非日常体験がたまに入ってきて、人としての枠を広げます。どちらか一方に偏ってしまっては、うまくありません。年齢を重ねるごとに日常体験の影響力は減ってゆき、非日常体験の重要性が上がります。そうして人は「よりよく生きる」ことを指向します。そうなると、冒頭でお話しした「体験格差」は、どうやら非日常体験における格差の話になりそうです。そう考えると、保育園ではなく、小学校の先生の懸念であるのも合点がいきます。

では「海外体験」とは、なんなのか?これは、非日常体験であることは間違いありませんが、その中でも非日常における非日常体験、つまり究極の非日常体験と言えるかもしれません。海外ということは、日本であるという前提がなくなります。そして、手軽さもなくなります。国内の非日常体験なら、県をまたげばできる、あるいは同じ県内でもできます。期間も日帰りから2~3泊程度でできます。海外となると、そうはいきません。だからこそ価値があるし、子どもにとって絶大な影響力を持ちます。この体験は、将来のその子の可能性の広がりであり、考え方の広がりであり、生き方の広がりになると、わたしは考えています。

海外体験で得られるもっとも影響力の大きい要素は、「言語」でしょう。これは、単に「英語が話せるようになる」という目的を意味しているわけではありません。「言語が違う環境に身を置く」ことで子どもに起きる主観的な経験です。それが、その子のなかに起こす広がりです。「言ってることがわからない・・・なのになんとなくわかりあえた!」という体験。それによって「誰とでもわかりあえる」「どこででもやっていける」「なんだってできる」といった“広がり”が生まれます。

人種の違いや日常の所作の違いなどによる文化的な体験もあります。白人や黒人、南米やアフリカ、ヨーロッパなど、さまざまな人種が存在します。みんな日本人とは見た目が違います。挨拶の仕方や人との接し方、距離感なども違います。最初は怖いと感じるかもしれません。でも、触れ合ってみると、多くの人が良い人でフレンドリー、でもそうでない人もいる。なんだ、どこも変わらないじゃん!このように、いろんな違いを認めつつ、一周回って同じであることに気づく体験。このように、本当の意味で人種差別をなくすような広がりにさえつながるのです。

次元を超えた環境の違いも、海外にはあります。空気が違う、建物が違う、景色が違う、そこから発するにおいが違う、気候が違う、太陽の熱さが違う・・・こうした日本国内では起きえない圧倒的に違う環境のもとに起こる感情や気づき、学び、インスピレーションがあり、それが体験として落とし込まれます。

海外体験においては、グローバル(全世界で通用する)で、エターナル(いつの世にも通用する)で、エッセンシャル(本質的)な学習要素がふんだんに含まれます。世界は広い!と言ったときに、国内しか知らなければ、その“世界”は、国内しか実感していません。海外で様々な体験をして、はじめて“世界”は、日本を超えた世界になるのです。日本に帰ったあとも、その世界の視点から、すべてを体験するのです。

また、海外は、不安がいっぱい、怖いこともたくさん起こるでしょう。そうした圧倒的な不安を乗り切った先には、大きな精神的成長が得られます。レジリエンス(回復する力)が養われます。中学生や高校生になれば、海外体験は、圧倒的な自信を育てます。殻を破り、限界を突破する体験ができます。たとえば、いじめにあったとか、対人関係に悩んだとか、学校生活が思うようにいかなかった、という子が、海外留学をして、日本の外からそれを眺めてみたら、「なんだ、言葉も通じないここでの苦労に比べたら、大したことないじゃん。」と思えたりするかもしれません。

このように海外体験は、「よりよく生きる」の次元を、一段も二段も上に引き上げてくれる体験であると、私は考えています。昨年(2023年)から、わたしが掲げているコンセプトに「世界のなかのワタシ」というのがあります。 (くわしくは、こちらのブログ記事をお読みください)「世界のどこででもやっていける」「なんだってできる」そういうメンタリティ(非認知能力)を持つ子どもです。そういう子どもに育てるうえで、海外体験はとても重要だと考えます。

そうは言っても海外体験には、大きなお金がかかります。親御さんは休みもとらなければなりません。それでも、そこまでやる価値があります。実際に、わたし自身の子育てにおいては、塾や習いごとよりも優先順位を高く置いてきました。試算すると、塾や習いごとにかける毎月の月謝分を積み立てれば、2~3年に1回くらいは、家族で海外体験の機会を作れます。

この話を始めると、長い話になってしまうので、これくらいにしておきますが、子どもへの教育投資として考えると、「海外体験」によって得られるものは、計り知れません。その後、日本へ帰ってきた後にも良い影響は続きます。物事への取り組み方や考え方のレイヤーが上がります。まさに究極の“体験”と言えるものです。

子どもの発達において、望ましい体験とは?

では、親として、保育者として、教育者として、子育て支援者として、「子どもにとって、なにが望ましい体験なのか」ということについて、まとめとして、振り返ってみましょう。

まず大事なのは、「日常体験と非日常体験」の両方が得られることです。日常体験は、生きるための土台をつくりますが、それだけでは「広がり」に限界があります。その中に、非日常体験が単発的にいくらか入ってくると、広がりが生まれ、よりよく生きることにつながります。われわれが発達とからめて注目する“体験”とは、主にこの非日常体験であると言えるでしょう。海や山などの自然体験や旅行での体験、塾や習いごとも、そこで主観的な発見や学びを得て、体験(エアレープニス)にまで昇華できれば、より有意義なものになるでしょう。さらに、そこに海外体験が加われば、よりグローバル(世界視野)で、エターナル(永続的)で、エッセンシャル(本質的)な発達の広がりが見込めます。

つぎに、体験は、「子どもの発達に則したもの」でなければいけません。パッケージ化された〇〇体験に参加するというのも、悪くはありませんが、それが、子どもの発達段階に合っているかの検討は重要です。3歳の子と6歳の子と、10歳の子では、パッケージングは変わってきます。そもそもパッケージングされた時点で、体験は主観的なものでなくなる可能性も高いことも検討しなければなりません。

そして、もっとも重要なのは、「大人がシナリオを描かない」ことです。大人の経験や思惑を入れてしてしまうと、エアレープニスの要素である「知性を経ない」という部分が失われてしまいます。何の期待もしない。何も評価しない。ただその環境の中で、子どもの中に感情の動きが起こり、発見が得られていれば、その体験こそが発達です。

シナリオと被る要素がありますが、「大人が目的を持たない」ということも、あえて付け加えたいと思います。サッカー教室にいくのに「運動神経がよくなる」とか、スイミング教室に通うのに「泳ぎが上達する」とか、英会話教室に通うのに、「英語ができるようになる」といった耳ざわりのよい目的を設定しないことです。子どもが、主観的で個人的な体験をしてきたなら、それがどんな体験であったとしても、発達にプラスになっています。親の目的にそぐわないからと言って、助言したり、指導したり、がっかりしたりすれば、その習いごとはマイナスにしか働きません。

そして最後に「子どもが主体であること」です。これは、最早言わずもがなです。体験とは、主体的なものでなければならない、というのが最初の定義でした。体験は、大人が与えるものではありません。子どもの中に存在するものです。もちろん、環境設定は大事です。しかし、その環境をどう使うか、何をするか、については、子どもに主導権があるということです。

われわれが、「体験が大事」と言ってきたことや、「体験」という名のもとに子どもに提供してきたもの、これからしようとしていることは、この原則に当てはめてみたときに、どのように映るのか?そんな観点から、いまいちど「体験」というものを見なおして、方向修正を試みてはいかがでしょうか。今回の座談会が、みなさんにとってよい“体験”として残り、何らかの発見や気づきがあれば、それほど嬉しいことはありません。

一般社団法人日本アタッチメント育児協会

理事長 

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