“幼児教育”をカン違いしていませんか?

先日、ある討論番組を観ました。教育評論家や識者、子育て中のお母さんが「幼児教育」について、さまざまな意見を交わす内容でした。その中で、ある双子の高校生のお母さんが、自らの子育てを振り返って、こんなコメントをされていました。

「幼児教育を意識して、よいと思われることは積極的に取り入れ、自分でも勉強して実践もしてきました。その結果、(二卵性双生児の)双子の息子は、ひとりは成績が良く、もうひとりはコミュニケーション力が高く、それぞれ違う風に育ちました。結局、その子が持っていたものによるのなら、(子どもたちが)小さいころから熱心に自分がしてきたことは、なんだったのだろう。そもそも幼児教育に目くじらを立てて取り組む必要なんてなかったのではないか?」

このコメントに一瞬「なるほど」と思ったのですが、どこか違和感を覚えました。その違和感の正体は、話しが進むにつれて明確になりました。続けてある教育関係の識者が言います。

「子どもの能力は、50%は遺伝によるものだという説もあります。そう考えると、幼児教育などの環境要因の影響は、そもそも限られています。」

別のコメンテーターは、自身の子育てを例に出して言います。

「レストランなどで、お水や料理を運んでもらったときに、『ありがとう』と言える人に育ってほしい。そう考えているので、子どものころから、そのことは教えるようにしています。ある程度は、そうして大人が教えることは必要だと思います。」

そして司会者は、こう問いかけます。

「そもそも、幼児教育の目的ってなんなのでしょうか?人によって、勉強だったり、スポーツだったり、アートだったり、前提はそれぞれなんでしょうけど・・・」

こうして番組では「幼児教育」について、親として、識者として、有名人として、司会者として、いろいろな立場の人が、それぞれの意見を述べられました。どのコメントも「なるほど!」と思わせるものであり、間違ってはいません。しかし、どれも聞いていて違和感が拭えませんでした。

わたしたち大人は、“幼児教育”において、もっとも大事なことをカン違いしたまま、これを扱ってきたのかもしれない

双子のお母さんが言っていた「結局は、その子が持って生まれたものによる」という主張は、その通り同感です。違和感は、そのあとです。「幼児教育にあれほど熱心にならなくても、同じだったのではないか」「能力の50%は遺伝」も、「『ありがとう』と言える人」も、「(幼児教育の)目的は、ひとによってそれぞれ」も、すべて主語が「親」なのです。

同じ遺伝子で、同じ親が、同じ方針で育てても、きょうだいは、まったく違う人間に育ちます。能力もパーソナリティも違います。言葉では誰もが納得し、同意していることでしょう。しかし、親の思いはそうはいきません。成績がよい、コミュ力が高い、〇〇の能力がある、「ありがとう」を言える、それぞれの前提・・・ここには、子ども本人の意志も選択も存在していません。親は、自らが設定した目的に、子どもを当てはめようとします。これを、われわれは“幼児教育”と呼んできたようです。それが、違和感の正体です。

主語は「親」ではなく、「その子」であるという事実

遺伝による“その子がもって生まれた資質や特徴”が、その子の能力を方向付けるという事実に、疑う余地はありません。ただし、それが 能力として開花するかどうかは、環境次第です。また、その能力を人生のなかでどう活かすか、どういう能力を育て開花させるかは、その子次第 です。 決定権を持つのは、その子本人だけ です。 親ができるのは、その子の能力が、ちゃんと育ち開花するように環境設定することまで です。親は、子どもが人生を自分で歩くようになったときに、たくさんの選択肢をもち、その能力において優位性をもっていることを願うことはできます。しかし、それ以上踏み込むことは、許されていないはずなのです。 すると、こんな疑問がよぎります。

「そうは言うけど、幼児期の子どもに、選択する分別はないのでは?大人が誘導したり、提示したり、与えたり、ときには強制することさえも、必要なことなのでは?」

そうかもしれません。しかし、それは大人が決めてよい理由にはなりません。だから、一般的な教育とは一線を画して“幼児教育”と呼ぶのです。幼児期の子どもには、分別がない、知識がない、経験がない。それならば、 特定の何かを決めなければよい のです。

子どもは世の中を知らない、だから親が決めてあげる必要がある、というのは間違いです

「勉強、スポーツ、音楽、アート・・・なにが開花するかわからないけど、たくさんの選択肢を与えてやりたい。」そういう親の思いは、正当なものです。だからといって、親が習いごとに躍起になるのは間違いです。

英語、STEM教育、プログラミング、体操、サッカー、スイミング、ピアノ、お絵かき・・・習いごとはたくさんあります。こうした習いごとを幼児期にはやるな、という話ではありません。これら 習いごとの習得そのものは、目的ではない ということです。

習いごとや遊びや生活そのものを含めたすべての“アクティビティ”をとおして、さまざまな体験をすることが、幼児教育のもっとも大きな目的です。その際大事なのは、 特定の能力や技術の方向付けをしないでおく ことです。

やがて幼児教育が終了すると、(小学校の)「一般教育」へと移行します。そして、小学校高学年くらいになると、みずから分別をもって、ものごとを選択できるようになります。これは、脳科学で言うところの「大人の脳」に移行する時期とも符合しています。そうなって、はじめて子どもが自分で選択するようになります。

特定のスキルや知識ではなく、その上の概念こそが幼児教育の目的

幼児教育とは、子どもが、好奇心を育み、学習するための基礎的能力を身につけ、課題や問題に目を向け、解決するといった体験や経験をとおして、才能や能力の土台をつくり、それらを活かすための素養を身につけるためのものです。

近年話題になっている「非認知能力」というのは、まさにこのことを言います。

・ものごとを最後までやり遂げる力(GRIT)
・世の中のあらゆることに興味と感心をむけて行動できる力(好奇心)
・これと決めたことに打ち込み深堀する力(集中力)
・自分で課題や問題を見つけ解決する力(問題解決力)
・他者と対話し協調する力(コミュニケーション力)

非認知能力で大事なのは、結果ではなくプロセス

これら非認知能力に代表される能力は、0~6歳までの幼児教育をとおして育まれます。

一方で、これまでのお勉強や暗記、訓練によって習得される“習いごと”は、「認知能力」と言って非認知能力とは対局にあるものです。だからと言って、習いごとそのものに意味がないわけではありません。習いごとをとおして得た体験や経験は、非認知能力をさらに高めてくれます。ただしそれは、習いごとである必要はありません。遊びや保育、日常生活における「経験・体験」すべてが含まれます。

ここで大事なのは、「習得」という結果ではなく、「経験・体験」というプロセスです。結果を求めることは、幼児教育においては好ましくありません。目的が結果になってしまうと、単なる暗記や訓練による認知能力で終わってしまい、非認知能力は育ちません。

“認知能力”は、そのときにはアドバンテージでも、数年すればみんなができるようになって、その効力は薄れてしまいます。しかし、幼児期に育んだ“非認知能力”は、その後一生をかけたアドバンテージとして機能し続けます。

幼児教育とは、ひたすら経験と体験を積み重ねる営み

話をまとめましょう。われわれ大人は、間違った前提のもとに「幼児教育」を語ってきました。親(あるいは社会)が目的やゴールを設定して、それに合わせた環境を与えることを前提としてきました。それが子どもの幸せにつながると信じてきました。

勉強ができる、プログラミングができる、英語が話せる、スポーツができる、楽器が弾ける、絵が描ける・・・

幼児教育は、そうした具体的な知識やスキルの習得が目的ではありません。もっと抽象度の高い概念を目的としています。それが、非認知能力に代表される要素です。そのために必要なのは、「経験と体験」に尽きます。特定のなにかを決めないで、ひたすら経験と体験を重ねていく営み、それが幼児教育です。

子育てを楽しみ、幼児教育を機能させる秘訣とは?

子どものために親ができることは、環境設定につきます。そこからさきは、子どものものです。それは、子育てを楽しむ秘訣でもあります。

親が結果に注目してしまうと、“できた・できない”、“はやい・おそい”に捉われ、となりの子が気になり、子育ては焦りと不安の営みになってしまいます。逆にプロセスに注目すれば、毎日の営みは楽しみに満ちていることに気づけます。日々のプロセスの中に、子どもの成長を発見し、喜びを見出すことができます。

幼児教育とは本来、子どもが体験したプロセスのことです。それによって得られるのは、わかりやすい何かのスキルや知識ではなく、非認知能力という抽象度の高く汎用性の高い能力です。だからこそ、一生涯を通じたアドバンテージたり得るのです。

われわれ大人は、もう一度、幼児教育というものの前提を置きなおす必要があるのかもしれません。

一般社団法人日本アタッチメント育児協会

理事長 

この記事が気に入ったら
いいね ! しよう

コメントは受け付けていません。

このページの先頭へ