よい子育てとは、「いかに子どもの邪魔をしないか」です

親の“愛情と、過剰さ”は、いつもセットで、子どもに与えられる

どんな親も、わが子を精一杯愛しています。それに疑問はありません。ところが、その愛が深いがゆえ、時として親は子どもに対して過剰になります。それは、程度の差こそあれ、私にも、あなたにも、どんな親にも、起こっていることです。

心理学者のドナルド・ウィニコットは、こう言っています。

「“ちょうどいい(good enough)”が子育ての理想である」

ウィニコットは、多くの親が、子どもに対して“ちょうどよく”いられるのは、とても難しいことだから、こんな風に言ったのでしょう。

わたし自身の子育てを振り返ってみても、思い当たります。子どもに対しては、いつも過剰な父です。過剰さは、ときに子どもの発達の邪魔をして、心に傷を負わせます。そのことがわかっていても、愛しているがゆえのことなので、自らは気づけません。親の“愛情と、過剰さ”は、いつもセットです。

これは厄介です。親は子どもを、愛しているから、過剰になり、過剰になるから、発達の邪魔をして、子どもの心に傷を負わせます。程度の差こそあれ、すべての親はそうです。そうなると、冒頭のウィニコットの言葉“ちょうどいい(good enough)”には、重い意味が立ち上がってくると思いませんか。「愛しながらも、過剰にはならないでいろ!」と言うのです。それが、「子どもがよく育つ秘訣である」と。

その習いごと、だれの意志ですか?ほんとうにすべて必要ですか?

“愛情による過剰さ”の問題は、実際にそこかしこで起こっています。とくに教育のこととなると、多くの親は盲目的にステレオタイプの価値観を子どもに押し付けがちです。

「子どもの可能性を広げるために、できるだけたくさん習いごとをさせてあげよう」
「教材を一式買って幼児期から英語に親しめば、ネイティブみたいになれるかも」
「学校の勉強に遅れないように・・・良い成績がとれるように・・・塾に入れなければ」
「これからの時代、英語は必須だから、いまのうちから英会話教室に通わせておこう」
「STEAM教育が重視されているから、プログラミング教室にも通わせよう」

ひとりの子どもに対して、親はこれだけ多くのことを考えます。そして実際に、毎月それなりのお金をかけて、何の疑問も持たずに実行します。子どもは、学校が終わると、毎日なにかしらの習いごとに行きます。場合によっては、土日にも入ったりもします。

しかし、冷静に考えてみてください。親の思いだけで、子どもにいくつもの習いごとをさせることは、いささか“過剰”ではないでしょうか?その習いごとは、子どもの意志とは関係なく、親が決めたものではないですか?子どもが「やめたい」と言ったことはないですか?我慢して通ってはいませんか?もしそうなら、それは親の過剰さの表れと考えた方がよいかもしれません。

「習いごとをするな」と言っているわけではありません。親が薦めてはいけないというわけでもありません。そこに、子どもの動機と意志が汲まれていれば、なんら問題はありません。

しかし、そうでないとすれば、子どもにとって“押し付け”になってしまいます。それでは、せっかく大事な時間とお金を費やしても、何の身にもなりません。それどころか、じつは大きな損失であり、子どもの発達の足をひっぱる結果になる。そんな考え方をしてみたことはありますか?

発達という観点から、この話を捉えてみると、ある重大な事実に気づきます。「習いごとをする」ことや「塾に行くこと」は、すべての子どもに平等にあてがわれた「時間をつかう」ことにほかなりません。この時間は、「遊ぶこと」や「なにかに没頭すること」、「家族の会話」、「お出かけ」、「旅行」・・・なにに使ってもよいものです。すべて時間のトレードオフによって成立しています。なにかに時間を使えば、その時間はもう別のことで置き換えることはできません。

保育園児が、ある習いごとにつかう時間は、お母さんと楽しく過ごす時間に置き換えることもできます。小学生が、学習塾に行く時間は、公園で遊んだり、釣りに行ったり、鬼ごっこをしたりして遊ぶ時間に置き換えることもできます。

前者と後者では、どちらが、その子の発達を前に進めるでしょうか?

言うまでもなく後者です。

保育園児にとっての習いごとは、必ずしも発達課題に合っているとは限りません。むしろあっていないことの方が多いようです。本人の動機や意志が入っていなければ、なおさらです。

小学生にとっての塾も同様です。学習塾について言えば、学校でやることを先取りするか、復習するか、いずれにしても同じことを繰り返すわけです。学校で身についていれば必要のないことです。繰り返しに意味がないわけではありませんが、“多様な体験”とトレードオフする価値があるとは思えません。

一方で、習いごとや学習塾に通わせることは、親にとってゆるぎない安心感があります。「子どもにとってよいことをしている」と思わせてくれます。ほかの親たちも、みんなそうしています。

この安心感こそが、見えない罠かもしれません。親は、なんの疑問も持たずに、習いごとをいっぱいさせ、学習塾に通わせることで、十分な教育をわが子に与えた気になります。しかし、立ち止まってよく考えてみてください。それは、本当に「子どもの発達にとってプラスになること」なのでしょうか?

どういう時間のトレードオフが、わが子の発達課題に有利なのか?

ここで、すこし発達の話を掘り下げてみましょう。子どもの発達には、それぞれ年齢に応じた「発達課題」というものがあります。いまの発達課題は、前の発達課題をクリアしたことによって立ち現れ、いまの発達課題をクリアすると次・・・というように発達は前に進みます。それぞれの発達課題は、およその年齢に対応しています。

その発達は、日常生活の体験のなかで育まれます。それは、自分ひとりのもの、友だちとのもの、家族とのもの・・・など様々です。そうして、発達は前に進み、さまざまな能力やスキルを身につけながら、子どもは、高度な認知機能を獲得してゆきます。

保育園児の子どもにとっては、日常のいろんな遊びが、まさにそれです。多様な遊びと体験を重ねることこそが、この時期の発達課題です。そこには、保育士さんやお友だち、家族とのやりとりや関係性も大いに影響します。

小学生の子どもにとっては、学校の授業やアクティビティとともに、放課後に何をするかが重要です。心理学者ジャン・ピアジェによれば、この時期は、勉強よりも実体験が重要です。どれだけ多様な体験ができたか、どれだけ工夫して遊べたか、どれだけ広い世界を視ることができたか、それらを自らの好奇心や意欲をもって取り組めたか。そうしたことが、その子の発達における質や、能力形成に影響し、その後、中学生になってからの勉強の出来や理解力・応用力につながります。

ピアジェによれば、机の上のお勉強が発達課題になるのは、じつは中学にはいってからです。つまり、塾に行くのは中学に入ってからで十分だということです。それも、学校の勉強の予習・復習をする学習塾ではなく、より高度で専門的なことを学べる塾にいくのが、発達課題に則した行動になります。

あたりまえを疑って、発達心理学に則した教育をあたえる

「習いごとも、学習塾も、子どもの発達課題のための体験とのトレードオフである」というこの事実を、われわれ大人は、もっと真剣に受け止める必要があるのではないでしょうか。

それは、親にとって安心できる選択ではありません。むしろ勇気と覚悟を必要とする選択でしょう。それでも、これこそが、お子さんの意欲と好奇心を育て、能力を引き出し、有能性を発揮する正しい方法です。この事実は、発達心理学がすでに証明してくれていることです。そして、発達心理学の視点から多くの親と子どもの育ちを間近に見てきた私の実感とも、見事に一致しています。どうか安心して、自信をもって、お子さんの発達に則した教育をあたえる・・・という価値に向き合ってみてください。

それでも不安なら、もう一つ裏付けを紹介しましょう。いま小学校教育で注目されている「後伸び力」というキーワードがあります。親が「あまり口や手を出さず、子ども信じて見守る」ことができれば、その方が、あとになって子どもの能力が伸びて有能に育つことを象徴する言葉です。この「後伸び力」もまさに、これまで話してきたことと同じなのです。

つまり、教育において重視される真実は、今も、ピアジェの生きていた100年前も、いつも同じベクトルを示してきたということです。

社会人になったときに、決定的な差が生じる

ところで「発達に則した教育」や「後伸び力」が、もっとも顕著にあらわれるのは、学校を卒業して社会人になったときです。社会に出て、(大学も含めて)学校というルールと枠組みがはずされたとき、その人の本当の能力が問われます。

学生時代にパッとしなかった子が、社会に出たら急に頭角を現し、実績を挙げ、成功体験に裏付けされた自信を積み重ね、失敗しつつも成長を続け、歳を重ねるごとにキャリアアップするケースがあります。

逆に、学生時代まではずっと優等生で、課外活動にも積極的で優秀だった子が、社会に出ると、応用が利かず、言われたことしか出来なくて使い物にならず、本人もそのことに劣等感を強めてしまい、せっかく入社した一流企業をすぐに辞めてしまうケースもあります。

「親として、あなたは子どもに、どちらであってほしいですか?」

この質問は、究極の質問のように見えますが、じつは誰にも当てはまる簡単なトレードオフ問題でしかありません。

前者は、親が「いま」よりも「後伸び」を信じる方針の子どもです。この場合、子どもが小学校の時代は、成績がパッとしません。親は大丈夫かと心配しながら、それでも子どもの後伸びを信じます。中学校に入ると、少し状況が変わります。得意科目の成績が伸び始め、それにつられるように、他の科目も伸びてゆきます。この傾向は、高校で加速し、大学進学へとつながります。しかし、本人の自己認識は「ふつう」なので、目立つことはありません。そして社会人になって、子どものころから積み上げてきた「後伸び力」は満開をむかえ、その後も、失敗を繰り返しながらも成長を続けるサイクルに乗ってゆきます。親は、自らの“子どもを信じる子育て”に、達成感を味わいます。

後者は、親が「いま」の成績をつねに重視する方針の子どもです。その結果、小・中・高ずっと「いま」の良い成績を維持します。親はそれに満足し、優越感さえ抱くでしょう。その後、一流大学に受かり、一流企業に就職を決めると、親の優越感は最高潮に達します。しかし、「いま」に捉われて得た“良い成績”は、発達課題を順に積みあげて獲得する“本当の能力”とのトレードオフです。社会に出ると、これまでの勉強で得た知識だけでは、まったく通用せず、仕事はうまくいきません。つねに優等生だった子どもは、わけもわからず自信を失い、後ろ向きの態度で愚痴ばかり言うようになります。「こんなはずじゃなかった」「上司が悪い」「会社が悪い」・・・やがて、会社を辞めてしまいます。

この2つのケースは、例外的なものではありません。このような新卒社会人に出くわしたことがある方は、多いと思います。わたし自身も、こうした人材と、何度となく関わってきました。決して珍しいことでないと実感しています。

さて、もういちど質問です。

子どもを思う親としての本当の幸せは、
いま伸び・・・後伸び・・・
どちらの子育て方針ですか?

やはり答えは、一択ではないでしょうか。

一般社団法人日本アタッチメント育児協会

理事長 

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