これからの子どもたちは、 答えのない世界を生きる

「無理ゲー社会」(橘 玲著)という本を読んだ。ベストセラーらしい。

“ きらびやかな世界のなかで、「社会的・経済的に成功し、評判と性愛を獲得する」という困難なゲーム ( 無理ゲー ) をたった一人で攻略しなければならない。これが「自分らしく生きる」リベラルな社会のルールだ。”(本文引用)

人生というゲームを攻略することは無理ゲーだ。才能ある者にとってはユートピア、それ以外にとってはディストピア。今の若者たちは社会に対して、自分では攻略不可能なゲームの世界に放り込まれている。そう筆者はいう。この主張に、なぜか違和感がわいた。ほどなくその正体に気づいた。

生きることの “ あたりまえ” をはき違えている

生きることに、攻略法などあるわけがない。人生の正解などあるはずはない。人それぞれだ。才能があろうが、なかろうが関係ない。そもそも、どこに自分の才能を見出すかさえ、人それぞれだ。それが前提にあるからこそ、「自分らしく生きる」ということばが意味をもつ。それは、現代の若者たちに課せられた社会の十字架などではない。これが違和感の正体だった。

正解すること、多く点を取ること、そうするとほめてもらえる

そう思いつつ、筆者の問題提起については賛同せざるを得ない。いまの若者たちは、小さいころから、正解を求め、その正解の数で評価されてきた。生きることは、攻略本から正解を探し当てることであり、できるだけ多く正解することが成功だと教えられてきた。その価値観を信じてがんばってきた。しかし、これは高度経済成長期であり、人口増加社会だったころの価値観、いまや “ 賞味期限切れの価値観 ” だと言わざるを得ない。

この子たちがいざ大人になってみると、社会の価値観は変わってしまっていたのだ。「ひとつの答えを求めようとするな!」、「自分はどう考えるんだ?」と詰め寄られ、これまでとは違う価値観で評価され、ダメ出しをされる。そして、努力が足りないとか、能力不足だと言われ、失敗の烙印を押されてしまう。これでは、生きる気力も失って、無理ゲーだ!となってしまうのも無理はない。時代が悪かったと嘆くのもしかたない。これはまさに社会問題だ。

大人としての自分が
影響をあたえられる領域で行動する

わたしはあえて、この問題を「子育てと教育の問題だ!」と言い切りたい。責任は、わたしたち大人にある。とはいえ、社会のせいにしたり、政治のせいにしたりするのは、わたしの性分ではない。そんなことを言っていたら、子どもはすぐに大人の年齢になってしまうから。そんなことをするよりも、自分が実行可能で、コントロール可能な領域で行動して、問題解決を図るのが、わたしの性分だ。

答えは簡単。しかし実行するのは、途方もなく難しい。

「時代に左右されない価値観で、子どもを育てる」

親が子どもにする行動の一つ一つが、子どもに与える影響の大きさを、わたしたちは、十分に知っている。子育ての中で、“ 時代に左右されない価値観 ” を伝えてゆけば、子どもにとって将来にわたる大きな武器になる。

中学卒業までやりきることが出来れば、ひと安心

簡単なことだが、いざ子育てにおいて、これをつらぬこうと思うと、とてつもなく不安なことだ。親が最初にくじけるのは、保育園に入り、習いごとをするようになるころだろうか。このころから、できた・できない、点数がいい・わるい、早い・おそい、といった幼児期には不必要な評価制度のなかに入れられる。そうした “ 世の中の当たり前 ” にあらがうのは、容易ではない。その後、小学校、中学校とすすむにつれ、くじけるポイントは、頻度も強度も増してゆく。よほどの信念と覚悟をもってのぞまないと、簡単に流されてしまう。

それでも、中学卒業まで、親が “ 時代に左右されない価値観 ” を伝えつづけることができれば、ひと安心だ。高校にあがってからは、子どもがみずからその価値観を自分のものにして、アイデンティティにとりこんでゆく。それができる子どもに育っているのだ。ここまでくれば、親の役割は終わったのも同然。あとは、子どもの邪魔をせず、信じ、応援するだけだ。

ひとりでやりきるには荷が重い

子育ては長い。成人までで考えても 20 年の道のりだ。20 代で親になった人も、40 代になる。これだけ長きにわたって、自分ひとりで、この方針をつらぬき続けるのは、正直言って無理がある。一緒に悩み、不安を背負い、歩んでくれる伴走者や、かたわらで寄り添い、応援し、導いてくれるサポーターの存在が欠かせない。

余談になるが、今年の全国大会のスキルアップ講座「アタッチメント・ペアレンティング」は、まさにそうした親のための伴走者でありサポーターを育てることを目的とした。

親からはじまって、教育さえもかわる

そのようにして、「時代に左右されない価値観で、子どもを育てる」ことが、親の側から、草の根的に浸透していけば、学校のクラスのあり方が変わっていくだろう。クラスが変われば、先生も変わり、学校も変わる。やがては教育そのものが変わり、子育ても教育も、よいものになる。わたしは、そんな妄想を本気でいだいている。「自分らしく生きる」ことは、“ 無理ゲー ”などではなく、“ あたりまえ ”と思える子どもが育つ世の中を、わたしたち大人は目指していきたい。

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