アタッチメント的考察(1)昔のいじめと現代のいじめ


 年々事態が深刻化し複雑化している「いじめ」について考えてみたいと思います。いじめによる自殺や事件が問題になる時、必ず出てくるのが学校側と教育委員会の隠ぺい体質ですね。確かに、いじめが起きている現場である学校は、いじめをなくす最後の砦であることは、間違いありません。しかし、これはこれで非常に大事なことなのですが、それでも起きてしまったことに対する対処の域を出ません。

 ここで考えたいのは、

「いじめは、なぜ起きてしまうのか?」

「いじめをなくすことが出来るのは誰なのか?」

という根本的な課題です。

 いじめというのは、常に「いじめる側」がいるから起こるものです。特に昨今のいじめというのは、「いじめる側」が、根拠も理由もなく誰彼かまわずターゲットを設定して、いじめが始まります。つまり、「いじめられっ子」が存在する必要性は、ないのです。「いじめられる側」は、ある日突然いじめられる、ロシアンルーレットのようなものです。私が子どもの頃は、いじめっ子は、そういうキャラクターで、それに対応して、いじめられっ子のキャラクターがいて、双方の関係によって、いじめが成立していました。ちょうどドラえもんに出てくる「ジャイアン、スネ夫 VS のび太」のようなものです。今はもはや、いじめっ子がいて、いじめられっ子がいるという昔の構図は存在しません。「現代のいじめ」は、常に「いじめる側」のみの存在によって成立しています。

 しかし、学校も教育委員会も、そしていじめを報じるマスコミも、そのことに気付かず、「いじめっ子 VS いじめられっ子」の構図で対処しようとします。そこに、まず根本的な勘違いが生じています。マスコミに登場する専門家やコメンテーターが「いじめられる側にも問題が・・・」とか、「いじめる側、いじめられる側、双方で考えないと・・・」などとコメントしていますが、私には、的外れで滑稽なものに聞こえます。

(次回に続く)

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