「世界の中のワタシ」と、これからの教育の話
「世界の中のワタシ」という願い
わたしが「世界の中のワタシ」という言葉を使い始めたのは、親としての願いが出発点でした。子どもに、どんな大人になってほしいだろう。そう考えたときに浮かんできたのが、この言葉だったのです。
子どもが小さい頃の世界というのは、とても限定的です。家族がいて、近所があって、通っている園や学校があって、その範囲がその子にとっての世界です。
言ってみれば、「〇〇町や〇〇市のワタシ」です。そこから少しずつ世界が広がっていく。〇〇県のワタシになり、東京のワタシや日本のワタシになり、そして世界のワタシになっていく。
別に海外で活躍してほしいというだけの意味ではありません。東京で暮らしてもいいし、地元で暮らしてもいい。日本に残ってもいいし、海外に住んでもいい。
大切なのは、「世界のどこででも生きられる」という感覚を持っていることです。世界のどこに居ても、自分の居場所をその地でつくりあげることができる。そういう感覚を持って育ってほしい。
その願いを込めて、「世界の中のワタシ」という言葉を使うようになりました。
人口減少社会が、教育の前提を変えている
ところで、わたしがこうしたことを考えるようになった背景には、日本社会の大きな変化があります。それは人口減少です。もう十年以上前から言われ続けていますが、日本は確実に人口減少社会へ入りました。
経済学において人口は、経済活動と直結しています。高度経済成長期は、人口が増え続けることを前提に成り立っていました。市場も拡大する。企業も成長する。
教育も、その前提で設計されていました。良い成績を取る。偏差値の高い大学へ行く。良い企業へ就職する。そうした流れが合理的だった時代です。
しかし人口が減り始めると、社会は逆回転を始めます。人口減少のいまは、市場は縮小し、企業の成長も一部限定的です。しかし、教育は、こうした経済の実態を反映することなく、過去の前提のまま行われています。こうして、この逆回転の影響をもっとも強く受けて、取り残されてしまったのが、今の教育なのです。
優等生が評価される時代は終わった
これまで評価されてきたものが、そのままでは通用しなくなっています。一昔前は、良い大学に入れば良い企業へ入れて、一生安泰だと言われてきました。企業もまた、成績優秀な学生を囲い込むように採用していました。
しかし今はまったく様子が違います。
採用現場で見られているのは、学歴や学校の成績ではありません。
むしろ、この人は何に興味を持つのか。この人はどこに挑戦できるのか。失敗したときにどう行動するのか。人と協力できるのか。
こうした物事の捉え方や考え方、行動様式といった性格傾向が重視されるようになっています。なぜなら、現代は答えのない時代だからです。
昔は、「これが正解だ」と教えられたことを正確に実行すれば成果が出ました。経済そのものが成長していたため、ある一つの正解の型を再生産すれば、黙っていても拡大したからです。
しかし今は違います。やってみなければ分からない。やってみて成果が出たら、そのことが正解。出なかったら別の方法を試してみる。そうした試行錯誤そのものが求められ、誰も正解を教えてくれはしません。常にその人独自の視点が問われます。
これから求められる「非認知能力」とは
このような時代背景で、近年注目されているのが、非認知能力です。
・何かをやり抜く力。
・失敗しても立ち上がる力。
・人と協力する力。
・興味を持ったことを深く掘り下げる力。
こうした数値化できない(点数化できない)能力です。
非認知能力が高い子は、必要になれば、それについて勉強もします。興味を持ったことに対しては、自分から学びます。深く掘り下げる力があるから、その分野について高度なレベルで学習することができます。このように知識は、必要に応じて後からでも身につけることができます。しかし、自分から学ぼうとする力そのもの(非認知能力)は、そう簡単には身につきません。だからこそ、これからの教育において本当に大切なのは、知識そのものではなく、その原動力となる非認知能力なのです。
娘が教えてくれたこと
このことを、わたしは自分のふたりの娘を見ていて実感しました。
特に下の娘は、勉強が得意な子ではありませんでした。かなり苦労もしていました。そんな彼女は、中3で高校受験をむかえる時に、「普通科には行きたくない」と言い出しました。もちろん勉強がしたくなかったからです。「勉強をしなくてよい進学先はないか?」と彼女は考えました。そうして選んだのが美術科のある高校でした。その時点で、彼女は絵を習ったことさえありませんでした。受験のためにデッサンを初めて習い、その高校を受験、進学を決めました。
高校では、油絵(油画)、日本画、彫刻と、一通り体験します。その中で彼女は彫刻を気に入りました。自分は、立体を認識する力が高いことを知ったからだそうです。
そして彼女は、最終的にある国立の美大を目指すことを決めす。美大といえども国立なので、センター試験がありました。彼女は、美術の実技試験だけでなく、センター試験の勉強も同時に始めます。大嫌いな勉強です。この挑戦は、彼女にとっては途方もないものだったでしょう。なにせそこは、美大志望者なら誰もが目指す大学で、何浪もして合格するような大学だったからです。しかし彼女は見事、その国立美大の彫刻科に現役合格を果たしました。
親の仕事は「邪魔をしないこと」
振り返ってみると、もしあの時、「もっと勉強しなさい」と強要していたら、彼女は自分の世界を見つけられなかったかもしれません。親として、「彼女のために何をしてあげたのか?」と聞かれたら、わたしはこう答えます。
子どもの邪魔をしなかったこと。
それだけです。もちろん必要な環境や情報は提供しました。しかし進む方向を決めたのは本人でした。親の役割は、子どもの人生を設計し導くことではなく、その子が自分の道を見つけられるように見守ること、もっと言えば、子どもの邪魔をしないことであると、あらためて実感します。
教育で本当に大事なのは「環境」ではない
このことを考えるときに、わたしが最近大事にしているコトがあります。
それは「体験」です。
わたしたちが教育を考えるとき、よく「環境が大事だ」と言われます。確かにその通りです。しかし環境という言葉は、ときに親のエゴに対する言い訳にもなってしまいます。
いい学校に行かせたい。いい塾に通わせて偏差値を上げたい。そうした親の一方的な押し付けが、「いい教育環境を与えたい」という言葉で正当化されてしまうことがあります。
ところが、これを「体験」という言葉に置き換えると、少し違った景色が見えてきます。
この子は、どんな体験をしているのだろう。
この習いごとは、この子にとってどんな意味があるのだろう。
その視点で考えると、いい学校やいい塾は、親自身のエゴであったかもしれないと気づくかもしれません。
「よい体験」には物語がある
実は、「よい体験」というのは、楽しい体験だけではありません。葛藤もあります。失敗もあります。不安や恐怖もあります。
ドイツ語に「エアレープニス」という言葉があります。体験の中に、その人固有の物語が生まれるような体験を指す言葉です。
怖かった。嫌だった。でも挑戦してみた。やってみたら楽しかった。できるようになった。できなかった。くじけた。励まされた。工夫してみた。思っていたのとは違うけどできた。そこには、さまざまな登場人物がいて、さまざまな場面が合って、さまざまなフェーズがあります。そうした物語が、その子の中に積み重なっていく。このように物語をともなう体験こそが、非認知能力を育てます。
AI時代、人間にしかできないこと
これからはAI時代です。知識を覚えること。情報を整理すること。分析すること。そうした領域は、これからますますAIが担うようになるでしょう。この領域では、人間はAIにはかないません。
だからこそ、人間はさらにその先へ行かなければなりません。
興味を持つこと。みずから問いを立てること。実現していないことに挑戦すること。ないものを創造すること。人と協力すること。未来を描くこと。
これらは、どれだけ進歩してもAIには出来ない人間固有の領域です。AIは、どこまでいっても過去の大量の情報やデータを基にした大規模言語モデル(LLM)です。
人間は、AIを利用する側で居続ける必要があります。AIと仕事を取り合えば、必ず人間は負けます。ならば、人間は人間にしか出来ないことを生業にしなければなりません。その意味で、人間はAIによって、まだまだ進化すると、わたしは信じています。
「体験」という視点で子育てを考えてみる
そうすると、これからの子育てにおいて、親ができる最も大切なことは何でしょうか?それはつまるところ、「子どもの邪魔をしないこと」ではないかと思い至ります。
これは放任とは違います。環境は整える。見守る。必要なときには支える。しかし親の不安や期待で、子どもの人生を先回りしたり、押しつけたりはしない。そういう態度が、「邪魔をしない」ということです。
これがますます重要な時代になっているように感じます。そこには、決まった答えがあるわけではありません。
ただ、これからの子育てを考えるとき、「体験」という視点から見直してみると、新しい気づきがあるかもしれません。
この子にとって、いま起きていることはどんな体験なのだろう。
そんな問いを持ちながら、子育てを考えてみてはいかがでしょうか。




