日本の子ども英語教育について

外国語教育は、いつ始めるとよいのか?「早いほうがいい?」「早すぎると悪影響!」・・・世界中の多くの研究者が、様々な論点を発表しています。私は、少なくともヨーロッパ言語を母語とする人の第二外国語習得と、日本語を母語とする日本人は、分けて考える必要があると思う。

つまり、英語以外のヨーロッパ言語を母語とする人が、外国語として英語を学ぶのと同じように、日本人が英語を学ぶことはない。それは、言語体系が似ている言語を学ぶ場合と、全く違う体系の言語を学ぶ違いだ。

だからこそ、「いつはじめるか」を議論する前に、「単一言語社会に生きる日本人のための英語習得法」という考え方が必要だと思う。その上で、もし早期に英語教育をはじめるなら、「子どもが学ぶ」ということと共に「日本語を母語として、英語を学ぶ」という二軸で考える必要があると思う。

なぜ、そんなことを考えるかというと、いよいよ2011年4月から、小学校での英語必修化がはじまるからである。まずは、5、6年生からとのことだが、英語教育の低年齢化が、さらに加速化することは必至。実際に、幼児英語教育に対する関心は、急激に高まっており、未就学児(幼稚園児、保育園児)の習い事として、スイミングの次に英会話が来ている。実際に、未就学児が一日に数時間、週1日~5日程度英語の環境で、保育・教育を受ける「プリスクール」の数は、2005年の114件から2009年の293件と約3倍、子ども英会話教室も、最近では、小学生ではなく、幼稚園児を対象とするところが、急激に増えている。

そもそも「言語」というものは、文化背景と密接に関わっており、それは、「アイデンティティー」に直結する。つまり、母国語とその言語が有する文化背景が、その人のアイデンティティーを形成するのである。これは、単一言語、単一民族である日本人にとっては、実感が薄い。つまり、言語習得プロセスの途中にいる幼児に、他の文化背景を持つ言語を学ばせる場合には、注意が必要だということである。さもないと、アイデンティティの確立において、支障をきたす可能性があるのである。

わかりやすいケースで言えば、乳幼児期や子ども時代を海外で過ごした日本人の子どもが、帰国子女として、帰国する。親は日本人なので、日本語は流暢だし、学校では英語なので、英語も流暢である。誰もがうらやむケースだが、当の本人は、大人になってから、自らのアイデンティティがどこにあるのか、わからなくなって悩むケースは多い。アメリカ人からは、日本人にしては「英語が上手ですね」と言われ、日本では、帰国子女にしては、「日本語も問題ないですね」といわれてしまう。つまり、母国語が存在しないのだ。マルチリンガルというと聞こえは良いが、どちらも外国語なのである。これは、単なる言語の問題にとどまらない。この先には、「自分は日本人なのか?それともアメリカ人なのか?」という民族アイデンティティの問題となるのである。それは、自我の確立の中枢を担う価値観に関わることなのである。

私の高校時代の友人にも、同じような状況の友人がいる。彼は、あるとき私に打ち明けた。「自分は、アメリカでも、日本でも、外国人扱いをされてきた。」彼の両親や兄弟は、アメリカ本土に暮らしている。祖父母は、名古屋である。両親も祖父母も、日本人なので、血としては日本人だ。彼は、帰国子女として、一流大学に進み、誰もがうらやむ一流企業に就職した優秀な男だ。しかし、彼は、そうしたキャリアを、あるときすべて捨てた。そんな彼が、安住の地として選んだ地は、日本でも、アメリカ本土でもなく、ハワイである。

話を元に戻そう。何が言いたいかというと、母国語を習得時期の子どもの外国語教育については、「子どもの発達」についての注意と、「母国語の言語背景と学ぼうとする外国語の言語背景」についての注意の両方が必要なのだということ。「子どもであって日本人、日本人であって子ども」ということである。

とりわけ、日本において、あるいは、英語以外の言語を母語とする国においては、多くの場合、外国語というのは、英語であろう。では、「日本人のための」という視点や「子どものための」という視点の英語教授法は、どれだけ存在するだろうか。そのように謳っているだけではなく、そのような目的を持って体系化された英語教授法である。その上、この二つの要素を併せて体系化したものとなると、皆無ではなかろうかと思う。

私が、(財)チャイルドTESL教育協会において、成し遂げたいのは、「日本語を母国語とする、子どもに特化した英語教授法」の確立である。

まずはやってみる ~ 感覚運動知能 と メタ認知 ~

先日面白いことがありました。

協会の事務所には、小さなベランダがあります。朝のそうじのときに、そのベランダから、手持ち用のモップの先(モップ部分)を落としてしまいました。

モップは、下の階の雨よけの上に落ちました。そこは、手をのばして届く場所ではなく、でもあと30cm手が長ければ、届きそうな位置関係でした。

さて、このモップをどうしたものか・・・と考えました。

事務所は2階、下はビルとビルの間で、人が通れる程度のすきまがあります。

最初に思いついたのは、このまま、モップをあきらめて、屋根の上に「放置にする」。しかし、これは、ゴミを放置するようで、気が引けます。何とか回収したいところです。

そこで考え付いたのは、棒を使って、モップを「下に落とす」こと。布のかたまりなので、落としても危険はありません。そして、それを拾いにいく。しかし、うまく、地上に落っこちてくれないリスクもあります。

次に、「棒を使う」というキーワードから、新たな思い付きがありました。棒にモップをひっかけて、救出するのです。しかし、モップの形状を見ても、引っかかりそうな気配はありませんでした。

それでも、「ダメモト」で、やってみました。

棒でモップをあちこち突っつくも、やはり救出は難しそうです。

そんなことをしていたら、新たなアイデアが浮かびました。

「もう一本棒を持ってきて、日本の棒で、箸のようにしてモップをはさんで、引き上げて、もう一人の人がモップを救出する。

なかなか可能性は高そうです。(この時点で、私はワクワクしています。)

すぐにスタッフに頼んで、棒(持ち手の長い床用モップ)を持ってきてもらい、実行しました。


結果は・・・

見事救出成功です。


とまあ、これだけのことなのですが、これを通じて、私の脳の中では、とてもすごいことがおきていたのです。

まず、問題の認知行動により、その解決を試みます。
(問題の認識)

次に、感覚運動知能が働き、まずは「やってみる」ことをします。
(行動)

問題解決はしなかったものの、やってみた結果、それまでは思いつかなかった新たな解決法を思いつきます。そして、その方法を試したくて「ワクワク」してくる「メタ認知」が起こります。このワクワクは、私の前頭葉が活性化して、喜んでいる証拠です。
(行動の修正)

最終的に、問題は解決し、私は「やり遂げた」という満足感と達成感を得ます。
(問題解決)

そして、私はいま、このことをコラムに書いています。

これは、このような気付きを得た喜びと、次への向学心のめに、それを共有しようとしているわけです。つまり、次の学びへとつなげようとしているわけです。

これらのことは、私が、そうなるように計算して行動したのではなく、日常によくある風景を、発達心理学的あるいは脳科学的に説明したに過ぎません。

でも、脳では、これだけのことが行われている事を考えると、とてもロマンを感じます。そして、子どもたちは、このような脳内活動を、われわれ大人よりも、もっと活発に、毎日のように行っているのです。だからこそ、勉強だけでは得られない大切な学びがあるのではないでしょうか?


発達の階段を無視した幼児教育は逆効果?!

発達心理学の世界では、愛着形成がしっかりできた子どもは、情緒が安定していて、想像力が豊かで、なおかつ問題解決力に富み、論理構築能力に優れた子どもに育つための土台が、非常に豊かにしっかりと育まれることがわかっています。

この土台のもとに、今度は、発達段階をよく理解して、子どもの「探究心」や「興味」を伸ばしてあげる「遊び環境」を与えることで、それぞれの特性は、能力となって開花します。ここの部分が、いわゆる幼児教育と呼ばれる部分であり、モンテッソーリやシュタイナーの思想や理念は、ここに宿っていると思います。

そういう意味で、幼児教育は、本来とても意義のあることだと思います。一方で、大きな危機感も持っています。

それは、「能力」を育てることや、「頭をよくする」ことばかりが先行してしまっているという現実に対して持っている危機感です。「英才」「能力開発」「天才を育てる」といった言葉は、親にとっては、飛びつきたくなる言葉かもしれません。

でも、その前に、育んでおかなくてはいけない「愛着関係」や発達の順番、子どもの成長において上らなければいけない階段、そういったものには興味を示さずに、いきなり3歳くらいになって「幼児教育」に力を入れることは、その子の成長にとって、大きな危険を伴わせる結果になります。

もし、幼児教育に力を入れるなら、まずは、「愛着」の土台作りからはじめる必要があります。どんなに立派な幼児教育プログラムも、この土台がしっかり出来ていなければ、意味がありません。意味がないどころか、子どもの心を壊してしまうことさえあります。

だからこそ、親は、「子ども」について、ある程度の知識を持っている必要があると思います。親自身が、そうした子どもの発達の仕組みを理解することこそが、本当の「幼児教育」なのだと思います。

もし、幼児教育に力をいれようと思うなら、親は、幼児教室に通わせて、先生に子どもをまかせるのではなく、自分自身が「子どもの発達のしくみ」を学び、自分自身が子どもを導くディレクターになる必要があります。人まかせではなく、親自身の態度が重要なのです。

それは、教育ママになることとは、全く違います。教育ママは、勉強を押し付け、自分の期待を押し付けるだけで、「子どもの発達、成長のしくみ」が全くわかっていない人です。

そうではなくて、子どもの「発達、成長のしくみを理解」し、親としての「役割を理解」し、適切な「環境」を与えられる人になることが重要ということです。

そうすれば、幼児教育などという小難しいものを持ち出さなくても、子どもは自然と豊かな能力を開花し、健全な心を養います。そのようにして育った子は、やがて、学童期や思春期になったときに「学校の勉強」の面でも、高い能力を発揮しますし、成人して社会人になれば、自分で人生を切り拓く人になるはずです。

ボクは、ひとりの親として、わが子には、そのような人間に育って欲しいと、心から願っています。