育メン・パパの、正しい叱り方

 「育メン」という言葉が、最近流行っています。「育児をするイケメン・パパ」という意味合いが込められた言葉です。ここには、「育児に積極的なパパは、かっこいい!」というメッセージが込められています。育児大好きパパにとっても、そして、これからパパになる男性にとっても、これは、とてもウェルカムなことですね。
そんな「育メン」のために、今回は「育メン・パパの、正しい叱り方」をお伝えしたいと思います。そもそも、「叱る」という行為の先には、「しつけ」という要素があります。これは、親の関心事として大きなものであり、わが子を一人前の自立した人格に育てる上で、とても大切なことでもあります。
しかし、「叱る」という行為は、諸刃の剣でもあり、子どもを自立に導くこともあれば、不用意に子どもの心を傷つけてしまうこともあります。また、「叱らない子育て」ということも言われますが、子どもにとって「父親から強く叱られる」という原体験が重要な時期があります。

■ 叱ると怒るの違い

 「叱るのと、怒るのは違う!」なんて、よく聞きますよね。これは、一体何が違うのでしょうか?わたしの理解で言いますと・・・
 「叱る」と言うのは、今のこの行いに対して、これからのあるべき姿を示す上で、強い感情を以って伝えることです。
 一方「怒る」は、感情の方向性の先に「恐怖」を与える行為に過ぎません。
 「しつけ」を目的にするならば、取るべき態度は、当然「叱る」の方です。それは、誰もが納得できることだと思います。しかし、親も人間です。全くの感情をはさまずに「叱る」ことは難しいでしょう。「怒り」かもしれない「哀しみ」かもしれない、「情けない」感情かもしれない。何らかの感情の方向性をもって、叱るのが普通です。それで良いと思います。
 ただし、必ず、その先に「これからのあるべき姿」を指し示してあげる必要があります。そうすれば、たとえ怒っていても、「叱る」という行為が成立するのです。実は、「叱る」という行為の中には、「怒る」も入っているのです。このことは、パパにもママにも共通して、「叱る」について言えることです。

 ■ 3~6歳は、パパの出番!ビシッ!と叱りましょう

 では、「叱る」ことについての父親としての役割について考えましょう。最近、草食系男子などという言葉もあり、「やさしすぎる父親」がいますが、これは、いただけません。父親の役割を全うしているとは言えません。「やさしい」ことは、大いに結構ですが、「やさしすぎ」て「叱らない」のは、大いに問題なのです。
 有名な心理学者のフロイト曰く、子どもには、父親に叱られ、怖さを知ることで、父親を「すごい!」と認め、受け入れる時期があります。年齢でいうと、およそ3歳から6歳の頃です。これは、子どもの社会性を育む上で、必要不可欠なことであると、結論付け、「超自我」と名づけています。
 この「超自我」が形成されるから、親や他の大人が叱ったときに、子どもは、行動を改めるのです。そして、それは、子どもの中でモラルとして機能して親の目の届かないところでも作用するのです。
やさしすぎる父親によって、強く叱られる経験を持たず「超自我」の形成が弱かった子どもは、その後の社会性やモラルが育ちにくく、反社会性を内面に持つ傾向があります。こうした子どもは、親や大人のいるところでは、それなりの振る舞いをしますが、大人の目がなくなると、たちまち無法者に豹変します。例えば、家や先生の前では「いい子」を演じるが、子ども同士の世界では、その反動のように無法者になるケースです。これは、「いじめ」のメカニズムの一つでもあります。
 育メン・パパとしては、普段は優しくても、叱るときは「ビシッ!」と叱りましょう。そこで、適度な恐怖を子どもに与えることも、必要なことなのです。
ただし、これは、3歳以降を目安にしてくださいね。0~3歳くらいまでは、子どもを叱っても、子どもは、自分の行為と、叱られている内容との因果関係を理解できません。そのため、「怒られた」時の恐怖しか残らないのです。
3歳未満の子どものある行為を止めさせたい時は、別のところに興味をそらして、止めさせるのです。それで、おしまい!で良いのです。

■ 「育メン・パパの、正しい叱り方」とは?

 最後に、本題の「イケてる叱り方」についてです。「叱る」という行為は、多くの場合、感情を伴います。さらに、パパのキャラクターもありますので、「叱り方」を一概に語ることは出来ませんが、一つ言えることがあります。それは・・・

「シナリオを描きながら叱れ!」

ということです。シナリオのメインフレームは、こんな感じです。
(例として、明らかにわかりやすい場合を想定します)
・叱る必要のある子どもの行動を発見
・「コラッ!何やってるんだ!」などと叱る
・(子どもは、ビックリして泣く)
・子どもの言い訳を、まずは聞く。
・なぜ、いけないのか、なぜ叱るのかを、教える
・「絶対に、二度とやるなよ!わかったか?」と強く約束
・(子どもはうなずく)
・約束できたことを褒めて、子どもを抱きしめて仲直りする
・あとは、笑顔。ひきずらない。

 このシナリオを、意識して叱れば、子どもに恐怖心を持たせたとしても、心に傷を付けることなく、しっかりと子どもに伝えることが出来ます。
 「叱られたけど、抱きしめてくれた。最後は笑ってくれた」このことがあれば、例え怖い思いをしても、子どもは、パパの愛情を充分に感じるのです。そして、叱られるたびに信頼関係を増していくのです。
 育メンパパとしては、叱る時はビシッ!と叱り、優しい時は、ベッタリと優しい。こうしたメリハリが、「イケてる叱り方」と言えます。
「普段はやさしいけど、怒ると怖い!」これですね!

最後に、3歳未満の子どもの場合には、先にお話したように、よほど危ない行為でない限りは、子どもを無闇に叱るのではなく、目線を変えてあげるようにしてください。

小学生は、机にかじりつくな!

小学生のうちは、あまり勉強しないくらいが丁度いい。勉強は大切だが、遊びからは、もっと多くを学べる。小学生の脳は、そのように出来ている。机上の勉強から多くを学べるようになるのは、12歳以降。小学生で勉強に疲れてしまっては、中学という机上の勉強の旬の時期に、勉強嫌いになってしまう。

小学校のときは、勉強がよくできたのに、中学に入って、めっきり落ちこぼれてしまった、という例は、意外と多い。この背後には、以下のようなメカニズムがある。

小学校の勉強というのは、勉強したかしないかが成績を分ける。基本的には、「読み書きそろばん」である。これらは、反復演習と記憶力の賜物であるので、やらなければ、身につかない。だから、小学生にとって、勉強は大事だ。「読み書きそろばん」の基礎が出来ていなければ、その後の教育は、全く成り立たない。

しかし、勉強よりももっと大切なものがある。それが「遊び」である。このように言ってしまうと、安っぽく聞こえるかもしれないが、私は、この持論に、きちんと根拠を持っている。育児セラピスト1級の受講生に、最も持ち帰ってもらいたい概念でもある。

学童期の子どもの学習プロセスは、大人とは違う。論理性の面では未成熟なのだが、その反面大人よりも直感的で、創造的で、イマジネーションに溢れた学習プロセスを経て、物事を理解し、より高度な学びを得る。つまり、頭で考えるよりも、体で感じて理解する。子どもは、複雑な概念さえも、感覚的に体で理解することができる。

例えば、補助輪なしの自転車に乗る場合、止まっているときには、足で支えないと倒れてしまう。少し走り始めると、ヨロヨロするが、支えはいらない。スピードが乗ってくると、自転車は安定する。言葉にすると当たり前のことであるが、これを論理的に説明しようと思うと、「遠心力」や「慣性の法則」などといった難しい話になるのである。では、子どもが自転車に乗るとき、「重力」や「遠心力」、「慣性の法則」を知っているから、安心して、二輪の自転車を操縦しているわけではない。子どもは、感覚的に、体で覚えているのだ。だから、止まっているときは足で支え、動き出しは、左右にハンドルを切って調節して、やがて、スピードが乗ってくると、手放し運転さえできたりする。つまり、高度な論理に裏づけされた概念を、論理ではなく、体で理解している。そして、それを楽しんでいる。

「体で感じて理解し、学び、楽しむ=遊びから学ぶ」これこそが、学童期の子どもの「学習プロセス」です。もちろん、ベースに「読み書きそろばん」があってのことなのですが、ベースは、あくまで、ベースですので、必要十分を満たしていれば良いのです。より高度な概念を獲得したり、より複雑な理解を得たりするのは、「体を使った遊び」を通してのことですので、これに関しては、遊びすぎても、遊びすぎることはない。そうして、いっぱい遊んで、いっぱい学ぶことによって、応用力や問題解決力が身につく。

学童期に身につけた読み書きそろばんといった基礎学力に、応用力と問題解決力が加わることで、中学に入ってからの机上の勉強が生きてくるのです。

小学生のときに、遊びの時間を削って、勉強をしていた子どもは、記憶と反復に基づく基礎学力は、身についているが、「体で学ぶ」ことが不足しているため、応用力が身についていない。すると、より高度な学習内容に取り組む中学生になって、困難を覚えることになる。しかも、遊ぶ時期に遊んでいないので、遊びへの渇望と、勉強に対する疲れによって、勉強嫌い、遊び好きになる傾向がある。

われわれ大人が、教育について考えなければいけないのは、学童期の子どもに対して、「読み書きそろばん」と「遊び環境」を、どのように与えられるかであり、「子どもには子どもの学び方がある」ことを、いかに理解するかではないだろうか。

日本の子ども英語教育について

外国語教育は、いつ始めるとよいのか?「早いほうがいい?」「早すぎると悪影響!」・・・世界中の多くの研究者が、様々な論点を発表しています。私は、少なくともヨーロッパ言語を母語とする人の第二外国語習得と、日本語を母語とする日本人は、分けて考える必要があると思う。

つまり、英語以外のヨーロッパ言語を母語とする人が、外国語として英語を学ぶのと同じように、日本人が英語を学ぶことはない。それは、言語体系が似ている言語を学ぶ場合と、全く違う体系の言語を学ぶ違いだ。

だからこそ、「いつはじめるか」を議論する前に、「単一言語社会に生きる日本人のための英語習得法」という考え方が必要だと思う。その上で、もし早期に英語教育をはじめるなら、「子どもが学ぶ」ということと共に「日本語を母語として、英語を学ぶ」という二軸で考える必要があると思う。

なぜ、そんなことを考えるかというと、いよいよ2011年4月から、小学校での英語必修化がはじまるからである。まずは、5、6年生からとのことだが、英語教育の低年齢化が、さらに加速化することは必至。実際に、幼児英語教育に対する関心は、急激に高まっており、未就学児(幼稚園児、保育園児)の習い事として、スイミングの次に英会話が来ている。実際に、未就学児が一日に数時間、週1日~5日程度英語の環境で、保育・教育を受ける「プリスクール」の数は、2005年の114件から2009年の293件と約3倍、子ども英会話教室も、最近では、小学生ではなく、幼稚園児を対象とするところが、急激に増えている。

そもそも「言語」というものは、文化背景と密接に関わっており、それは、「アイデンティティー」に直結する。つまり、母国語とその言語が有する文化背景が、その人のアイデンティティーを形成するのである。これは、単一言語、単一民族である日本人にとっては、実感が薄い。つまり、言語習得プロセスの途中にいる幼児に、他の文化背景を持つ言語を学ばせる場合には、注意が必要だということである。さもないと、アイデンティティの確立において、支障をきたす可能性があるのである。

わかりやすいケースで言えば、乳幼児期や子ども時代を海外で過ごした日本人の子どもが、帰国子女として、帰国する。親は日本人なので、日本語は流暢だし、学校では英語なので、英語も流暢である。誰もがうらやむケースだが、当の本人は、大人になってから、自らのアイデンティティがどこにあるのか、わからなくなって悩むケースは多い。アメリカ人からは、日本人にしては「英語が上手ですね」と言われ、日本では、帰国子女にしては、「日本語も問題ないですね」といわれてしまう。つまり、母国語が存在しないのだ。マルチリンガルというと聞こえは良いが、どちらも外国語なのである。これは、単なる言語の問題にとどまらない。この先には、「自分は日本人なのか?それともアメリカ人なのか?」という民族アイデンティティの問題となるのである。それは、自我の確立の中枢を担う価値観に関わることなのである。

私の高校時代の友人にも、同じような状況の友人がいる。彼は、あるとき私に打ち明けた。「自分は、アメリカでも、日本でも、外国人扱いをされてきた。」彼の両親や兄弟は、アメリカ本土に暮らしている。祖父母は、名古屋である。両親も祖父母も、日本人なので、血としては日本人だ。彼は、帰国子女として、一流大学に進み、誰もがうらやむ一流企業に就職した優秀な男だ。しかし、彼は、そうしたキャリアを、あるときすべて捨てた。そんな彼が、安住の地として選んだ地は、日本でも、アメリカ本土でもなく、ハワイである。

話を元に戻そう。何が言いたいかというと、母国語を習得時期の子どもの外国語教育については、「子どもの発達」についての注意と、「母国語の言語背景と学ぼうとする外国語の言語背景」についての注意の両方が必要なのだということ。「子どもであって日本人、日本人であって子ども」ということである。

とりわけ、日本において、あるいは、英語以外の言語を母語とする国においては、多くの場合、外国語というのは、英語であろう。では、「日本人のための」という視点や「子どものための」という視点の英語教授法は、どれだけ存在するだろうか。そのように謳っているだけではなく、そのような目的を持って体系化された英語教授法である。その上、この二つの要素を併せて体系化したものとなると、皆無ではなかろうかと思う。

私が、(財)チャイルドTESL教育協会において、成し遂げたいのは、「日本語を母国語とする、子どもに特化した英語教授法」の確立である。

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